愛知用水事業をきっかけに、三祐コンサルタンツは生まれた

三祐コンサルタンツの歴史をさかのぼると、「愛知用水事業」とそれを実現するために血の滲むような活動を行った2人の人物のことを語らざるを得ません。愛知用水の提唱から完成、そして会社設立までの歩みを振り返ります。

愛知用水とは
愛知県の尾張の一部から知多半島に、農業・工業・水道用の水を供給する用水。木曽川を水源としており、幹線水路は112kmに及ぶ。半世紀以上に渡って愛知用水地域の発展を支えている。

1948
久野庄太郎と浜島辰雄が出会い、
愛知用水事業が動き出す。
1961
6年もの歳月をかけ、
愛知用水が完成。
1962
三祐コンサルタンツの前身の、
三祐コンサルタンツ
インターナショナル設立。
代表取締役社長に久野庄太郎、
代表取締役に浜島辰雄が就任。

干ばつに苦しむ知多半島を救いたい。
久野庄太郎の熱い想いから、愛知用水事業がはじまった

愛知用水が整備されるまで、知多半島の農家は夏の干ばつに苦しんでいた。知多は夏の降雨量が少ないうえに、降った雨はそのまま海に流れてしまう。そのため、農業においてはため池が頼りで、知多半島には1万個以上ものため池が点在していたが、皿池とよばれるほど浅く、すぐに干上がってしまっていた。
そんな知多半島に1900年に生まれたのが、久野庄太郎である。のちに、三祐コンサルタンツインターナショナルを創業する人物だ。夏になると田畑の水汲みに明け暮れていた久野青年は、当時の富貴村の村長から、「安城にある明治用水のように、知多半島も用水路を整備し、農業を根本的に改良する必要がある」という話を聞き、以来、その実現を夢見るようになった。
夢の実現を決意したのは、久野が46歳のときのこと。1946年に県下の農家代表として、昭和天皇に農業事情を御前講演した際に、「このうえともどうぞしっかりやって下さい。」と頼まれ、実現を強く心に誓った。さらに、1944年と1947年に経験した大干ばつが、久野の決意を確固たるものとした。専門家や県庁のアドバイスを得て現地調査を行い、農村同志会を設立。「台地を豊かにして新しい農業を興すには愛知用水が必要である」と、1948年に記者会見を開き、翌日の新聞にも掲載された。この記事に共鳴したのが、安城農林学校で教諭をしていた浜島辰雄(後の三祐コンサルタンツインターナショナル代表取締役)である。かねてより同じ想いを描いていた浜島は、すぐに久野を訪ねて意気投合した。早速2人は5日間の実地調査を行い、木曽川からの引水を計画。愛知用水概要図を描き上げた。

時の首相吉田茂をも動かし、
直轄調査予算をつけることに成功

1948年10月1日には愛知用水開発期成会が設立され、運動はさらに強力に推進されることになった。同年、農林省への陳情をした際に、時の総理大臣であった吉田茂にも直接陳情できるチャンスを得た。当初5分の予定だった陳情は、総理から次々と聞かれる質問に答えるうちに40分にもなった。最後に吉田首相が大きな声で、「食糧増産、失業対策、よいではないか」と言葉を残した。この陳情もあって、愛知用水に対する直轄調査予算をつけることができ、農林省の現地調査が始まった。1952年に愛知用水土地改良区が設立され、1955年には愛知用水事業基本計画の概要が告示された。同年10月10日に愛知用水公団が設立され、事業の動きが加速した。

難題を一つずつ乗り越え、愛知用水が完成。
技術者の受け皿を確保すべく、三祐コンサルタンツインターナショナルを設立

世界銀行の借款交渉、ダム建設の反対運動、工事中に噴出した火山性有毒ガス、暴れ川ともいわれる木曽川の制圧など、多くの困難に直面したが、人々の決意が揺らぐことはなかった。いくつもの難題を乗り越え、愛知用水は422億円の総工費と6年の歳月をかけて完成した。通水式は1961年9月30日に行われ、テレビでも中継された。くす玉が割られると同時にゲートが上がり、毎秒30tもの清流が一気に流れると人々の歓声が沸いた。
実は、愛知用水の建設が佳境を迎えていた裏側で、完成の1年前から愛知用水公団労働組合幹部から、愛知用水公団の技術者800人の完成後の就職先について相談を受けていた。技術者たちを活かさなければ、国の損失になると考えた久野は、公団の技術者の行き先について、2つのプランを考えた。1つは国内で新たなプロジェクトを探し、就業してもらうもの。久野は国内のプロジェクト探しに奔走し、豊川用水事業という就労先を見つけた。豊川用水事業では、愛知用水で培った技術がいかんなく発揮され、1968年に全面通水となった。もう1つのプランは、海外技術援助のコンサルタント会社をつくり、そこから相当数の人材を海外に派遣するというものであった。久野から海外案件を任された長男の彦一は、当時調査段階であったイランのタレガン水資源開発事業に着目。吉田茂元首相にイラン大使宛に紹介状を書いてもらい、視察に赴いた。この事業は1965年から始動し、当社にとって記念すべき海外プロジェクト第一号となり、1975年に完成した際には現地の新聞で大きく報じられた。

愛知用水実現を志した熱い想いは、
今の三祐コンサルタンツにも受け継がれている

愛知用水が完成したことで、知多半島の農業生産量は飛躍的に増加。当時255.7億円規模であった農業産出額は、1999年には倍以上の708.5億円にも達し、今では農業だけでなく、温室栽培や果樹園、家畜業が盛んな土地となった。
また、この事業は知多に発展をもたらしただけでなく、三祐コンサルタンツの誕生・飛躍のきっかけとなったことは言うまでもない。愛知用水で培った技術は、国内の他事業にとどまらず、海外でも発揮。愛知用水実現を志した久野庄太郎の熱い想いは、今もなお脈々と受け継がれている。

RECRUITインターンシップ・採用情報